
七宝焼の発祥の地はどこ?古代エジプト起源から愛知県七宝町までのルーツまとめ
「七宝焼」の発祥の地を調べると、「古代エジプト」と出てくることもあれば、「愛知県」と出てくることもある。矛盾しているように見えるが、どちらも間違いとは言えない。
七宝焼の技法そのものが生まれた場所と、いま日本でつくられている「七宝焼」が始まった場所は別だからである。その二つを混同せずに整理し、紀元前から現代までのルーツをたどろう。
七宝焼産地として名を馳せる「七宝町」の名前の由来まで押さえれば、七宝焼という工芸が土地とどれほど深く結びついているかが見えてくる。
七宝焼の「発祥の地」は二つある──世界の起源と日本の起点
七宝焼の発祥の地を語るときは、「技法の起源」と「日本の起点」を分けて考える必要がある。
技法としての「七宝」──つまり、「金属の上でガラス質を溶かして装飾する技術」の起源は、紀元前の中近東にさかのぼる。このガラス質の素材を溶かす技法自体は、日本で生まれた技術ではない。
一方、現在の日本でつくられている「七宝焼」は、江戸時代後期の尾張(現在の愛知県)で製法が確立されたところから始まっている。国内で「七宝焼の発祥の地」といえば、愛知県あま市の七宝町一帯を指すのが一般的だ。
| 区分 | 場所 | 時期 |
|---|---|---|
| 技法の起源 | 古代エジプト・メソポタミアなど中近東 | 紀元前 |
| 日本への七宝技法の伝来 | シルクロード経由で中国・朝鮮半島から | 古墳時代と推定 |
| 日本の近代七宝の起点 | 尾張(愛知県あま市・名古屋市) | 天保年間(1830〜1844年) |
これらの違いを認識しておくことで、資料によって発祥の地の記述が異なる場合でも、正確に区別することが可能だろう。
七宝焼技法の世界的「発祥の地」は、古代エジプト・中近東
七宝焼の技術的なルーツは、古代エジプトやメソポタミアといった中近東の地域にあるとされている。金属の枠をつくり、その中にガラス質を充填して焼き固めるという発想自体が、紀元前にはすでに実用化されていたのだ。
最もよく引き合いに出される実例が、ツタンカーメンの黄金のマスク。青く輝く縞模様の装飾部分に、七宝と同じ原理の技術が使われていることが確認されている。
ヨーロッパでもこの七宝(エナメル)技法は独自に発展し、エナメル工芸として体系化された。土台の金属を彫りくぼめてエナメルで埋めるシャンルヴェ、金属線で仕切って埋めるクロワゾネ、薄い箔を後から溶かして光を透かすプリカジュールなど、名称が細かく分かれている。
日本の有線七宝は、このうちクロワゾネに、省胎七宝はプリカジュールに相当する。呼び名は違えど、発祥の地を共有する同じ技術系統だということが、その作り方によってわかる。
七宝焼技法が発祥の地からシルクロードを渡って日本へ届くまで
中近東で生まれた七宝焼の技法は、東西の交易路を通って東へ運ばれた。七宝焼技法の発祥の地である地中海世界からシルクロードを経て中国へ入り、朝鮮半島を経由して日本へ伝わったというのが定説だ。
日本への伝来時期は古墳時代と推定されている。仏教や金属工芸の技術とともに渡来した可能性が高く、単独の技術としてではなく、当時の先端文物の一部として届いたと考えられている。
伝来を裏づける出土品
- 7世紀後半/奈良県明日香村・牽牛子塚古墳出土の「七宝亀甲形座金具」。1977年の調査で棺内から発見された銅製の金具で、日本最古の七宝とされる
- 8世紀/正倉院宝物「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」
- 平安時代/平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶
これらの遺例は、七宝焼が江戸時代に突然もたらされたものではなく、飛鳥・奈良時代からすでに日本にあったことを示しているのだ。ただしこの七宝技術は複雑な技術であったため継続はされずに途中で細り、江戸後期に改めて解明され直すこととなる。
日本における近代七宝の発祥の地は尾張(愛知県あま市)
いま私たちが手に取るいわゆる「七宝焼/近代七宝」の発祥の地は、愛知県あま市を中心とする尾張地方だ。
天保年間(1830〜1844年)、尾張藩士の次男だった梶常吉(1803〜1883年)が、オランダ船で輸入された七宝の皿を入手して独学で研究した。舶来の皿をあえて割り、素地として銅が使われていることを突き止めたと伝えられている。10年以上の試行の末に七宝焼の製法を確立し、1832年には七宝の小盆を完成させたのだ。
常吉が編み出した技術は尾張藩領内に広がった。のちに海東郡遠島村(現・あま市七宝町遠島)の林庄五郎が常吉に弟子入りすることで、この七宝町に、現在にまで続く技術が根づいたのだ。
常吉の出身地である名古屋市中川区と隣接する七宝町一帯が、そのまま産地として発展したことが、ここを日本の七宝焼の「発祥の地」と呼ぶ根拠になっている。以後この系譜は「尾張七宝」と呼ばれ、日本の七宝焼の本流として現在まで続いている。
地名「七宝町」が七宝焼に由来する理由
愛知県あま市には「七宝町」という地名があります。この地名は工芸の名前に由来しており、産地の名が土地の名になった全国的にも珍しい例だ。
発祥の地「七宝町」町ぐるみで支えた分業体制
七宝焼は工程が非常に多い工芸。金属素地の成形、下絵、銀線を立てる植線、釉薬差し、複数回に及ぶ焼成、そして研磨や飾り付け。一人ですべてを担うのではなく、工程ごとに職人が分かれる分業体制が七宝町では成立した。
この技術の集積があったからこそ、大型の花瓶等を安定して量産でき、明治期の輸出需要にも応えられたとされている。地名がそのまま産業を表す状態になったのは、町全体が一つの工房として機能していたからなのだ。
京七宝の系譜から見る七宝の発祥の地
京都には、以前から独自の流れも存在した。江戸初期、小堀遠州に登用された嘉長が桂離宮や修学院離宮、大徳寺の襖引手や釘隠しを泥七宝で製作し、京七宝を発展させている。1634年(寛永11年)の名古屋城本丸御殿・上洛殿の襖引手は、制作年が確認できる国内最古級の七宝である。
これらは京七宝と呼ばれ、尾張七宝・近代七宝とは別の流れを継ぐ七宝技法の系譜とされている。京七宝の文脈で「七宝の発祥の地」を探る場合は、シルクロードで技法が渡ってくる以前、古代エジプトを指す場合が多い。
七宝焼の発祥の地を訪ねる──現地に残る窯元と施設
七宝焼の発祥の地を実際に歩くなら、多くの場合ではあま市七宝町が起点となるだろう。
- あま市七宝焼アートヴィレッジ/七宝町遠島にある産地の拠点施設。展示と制作体験ができる
- 田村七宝工芸/七宝焼の制作所及び作品を見る&制作体験ができる(お問い合せ)
- その他七宝町の窯元/産地に残る工房、見学等に応じるところもある
発祥の地にて焼き続ける「田村七宝工芸」
七宝町で明治16年(1883年)に窯を構え、代々にわたって技を受け継いでいる田村七宝工芸。発祥の地に残る数少ない作り手の一つとして、いまも窯に火を入れ続けている。
花瓶や飾り皿などの伝統的な美術工芸品に加え、現代の七宝需要に合わせ、ネックレスやピアスといった日常で使える装身具も手がけている。記念品や伝統技法を生かしたコラボレーション需要も多く、制作用途の幅は広い。
