
七宝焼を作った人は誰?近代七宝の祖・梶常吉と技を受け継いだ名工たち
七宝焼を作った人は誰なのか?この問いの答えは一つには定まらない。なぜならば、日本で最初に七宝技法を用いて「七宝焼」を作った人物と、いまの「七宝焼」いわゆる近代七宝を確立した人物は別だからだ。
今回は、近代七宝の祖と呼ばれる梶常吉の人物像と、その技術がどう受け継がれたのかを、生没年や年号といった確認できる事実に沿ってたどろう。
七宝焼を作った人は誰か──近代七宝の祖・梶常吉
現在の七宝焼を作った人を一人挙げるなら、梶常吉(かじ つねきち/1803〜1883年)。尾張藩士の次男として生まれ、独学で七宝焼の製法を解明した人物で、「近代七宝の祖」と呼ばれている。
常吉が活躍したのは天保年間(1830〜1844年)。彼が確立した技法は「尾張七宝」と呼ばれ、現在つくられている日本の七宝焼のおおよそはこの系譜に属する。
没年は1883年(明治16年)。80年の生涯のうち、後半生のすべてを七宝焼に捧げた人物だった。
「七宝焼を作った人は誰か」と検索して梶常吉の名がまず出てくるのは、彼が七宝技法の発明者だからではなく、途絶えかけた技術を日本で再構築した人であるからだ。この違いを押さえれば、七宝の歴史についての正しい理解が深まるだろう。
七宝焼を作った人・梶常吉が製法を解明するまで
常吉が七宝焼と出会ったきっかけは、オランダ船が運んできた一枚の皿。その美しさに衝撃を受けた常吉は、皿を買い上げて研究を始める。
14年におよぶ試行錯誤
当時、七宝の製法は国内に伝わっていなかった。常吉は失敗を重ね、周囲の反対も受けながら10年以上にわたって研究を続ける。やがて貴重な舶来の皿をあえて破壊し、土台に銅が使われていることを突き止めた。
この発見が突破口となる。研究開始から14年目、31歳のときに製作方法の確立に成功した。1832年には七宝の小盆を完成させた記録も残っている。
食事を忘れるほど没頭したという逸話が残るほど、常吉の探究は徹底したものだった。
以後、七宝焼は尾張で盛んに製作されるようになり、幕末には尾張の特産品として広く認識されるに至る。一人の武士の執念が、今世にまで残る有名な工芸産地を一つ生み出すこととなった。
七宝焼を作った人・梶常吉が技術を広めた方法
常吉が確立した技法は、彼一代で終わらなかった。
海東郡遠島村(現・あま市七宝町遠島)の林庄五郎という人物が、熱心に頼み込んで常吉の弟子になる。このとき庄五郎は「製法は一子相伝とし、親兄弟にも漏らさない」という約束を常吉と交わしたと伝えられる。
厳格な条件つきの伝授だったが、結果として遠島を核に技術が定着し、周辺へ職人が増えていった。常吉の出身地である名古屋市中川区と隣接するこの地域が、そのまま産地として成長したのだ。
七宝焼を作った人が一人の工芸作家で終わらず、弟子入りによって町ぐるみの産業に育っていったことが、日本の七宝焼が今日まで残った最大の理由である。
現在も愛知県あま市に「七宝町」という地名が残っていること自体が、この広がりの証拠だといえるだろう。
日本で最初に七宝焼を作った人は別にいる
ここで冒頭の但し書きに戻ろう。日本で本当に最初に七宝焼を作った人は梶常吉ではなく、飛鳥時代の名前の残らない工人たち、だ。
作り手の名が残らない日本最古の七宝
現時点で確認できる日本最古の七宝は、奈良県高市郡明日香村の牽牛子塚古墳から出土した「七宝亀甲形座金具」である。1977年(昭和52年)の第2次発掘調査で棺の中から見つかった銅製の金具で、長径は約4.6センチ。古墳の造営は7世紀後半と推定されている。
その後も、8世紀の正倉院宝物「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」、平安時代の平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶など、作り手の名が伝わらない七宝技法の遺例は続く。
名前が残る最初期の作り手としては、桃山末期から江戸初期に活躍した京都の金工師・平田彦四朗道仁(1591〜1646年)が挙げられる。平田一派は江戸幕府御抱えの七宝師となり、刀剣の装飾などに七宝を用いた。これが、近代七宝とは別の系譜として、現在の京七宝の工芸文化へとつながる。
真に七宝焼を作った人たち・世界最古の七宝職人
また、「七宝焼を作った人」として七宝技法を世界最古に用いた人物を探るのであれば、紀元前の古代エジプトにまでさかのぼる必要がある。ツタンカーメンの黄金のマスクなどにも七宝装飾が施されているが、彼らを最古の七宝職人と見立てても、その職人の個人名は定かではない。
ツタンカーメン王墓のある「王家の谷」の墓づくりに従事した職人たちは、ルクソール西岸の「デイル・エル=メディーナ」という職人専用の村に住んでいた。王墓建設という国家プロジェクトのために計画的につくられた村だ。
村は新王国時代・第18王朝に設立され、古代には「セト・マアト(真実の場所)」と呼ばれていた。周囲から見えにくい窪地に置かれ、作業の秘密が守られる立地となっており、彼ら自身も「セジェム・アシュ(真実の場所の職人)」と称していた。
このデイル・エル=メディーナの職人たちの中では、ツタンカーメンの黄金マスクやネフェルティティ胸像など、高難度の工芸技法について技術の共有が一定はなされていただろう。
これより以前の七宝・エナメル技法装飾が現在は出土していないため、世界最古の七宝職人、真に七宝焼を作った人としては、この古代エジプトの「デイル・エル=メディーナの職人たち」という答えが最も近い答えと言える。
近代七宝・梶常吉のあとに七宝焼を高めた作り手たち
改めて、近代七宝の系譜に話を戻そう。常吉が開いた七宝の道は、明治期に一気に花開く。七宝焼を作った人として名を残す主要な人物を整理する。
- 塚本貝助(1828〜1897年)/常吉の弟子。尾張七宝の技術を受け継ぎ、次代へ橋渡しした
- 並河靖之(1845〜1927年)/京都。有線七宝で日本画のような筆致を七宝上に再現。帝室技芸員
- 濤川惣助(1847〜1910年)/東京。無線七宝を考案し、ぼかしと濃淡の表現を可能にした。帝室技芸員
- 初代 稲葉七穂(1851〜1931年)/京都・錦雲軒稲葉の創始者
並河と濤川は姓の読みが同じことから「二人のナミカワ」と並び称された。ライバル関係にありながら互いの作品を高く評価し合っていたことでも知られている。
濤川惣助は千葉県海上郡蛇園村(現・旭市蛇園)の出身で、はじめは江戸で陶器商を営んでいた。作り手の出自が多様だったことも、明治の七宝焼が急速に多彩化した一因かもしれない。
七宝焼を作った人たちを支えた技術革新
明治期の飛躍は、作家個人の才能だけで起きたわけではない。決定的だったのは、透明度の高い釉薬が国内で開発されたことだ。
この開発には、明治初年に来日したドイツ人科学者ゴットフリード・ワグネル(1830〜1892年)が関わってる。それまでの日本の七宝技法は、光沢が乏しく不透明な「泥七宝」が主流だった。
透明釉が使えるようになったことで、下地の金属の輝きを透かして見せる表現や、色の深いグラデーションが可能に。並河靖之の黒地に浮かぶ鮮烈な色彩も、濤川惣助のぼかしも、この釉薬なくしては成立しなかった。
成果は国際舞台で示される。1867年のパリ万国博覧会で日本の七宝が紹介され、1900年のパリ万国博覧会では高い称賛を受けたのだ。七宝焼を作った人たちの技と、科学者がもたらした素材の進歩が噛み合った瞬間だったといえるだろう。
いま七宝焼を作っている人たち──発祥の地の窯元
梶常吉が製法を解明した尾張の地では、いまも職人が窯に火を入れている。
尾張七宝は1995年(平成7年)4月5日に経済産業省の伝統的工芸品に指定され(第29次指定)、七宝焼の伝統的工芸としては唯一の指定産地となっている。
明治期より代々続く、田村七宝工芸
常吉の技術が最初に根づいたあま市七宝町で、明治16年(1883年)に窯を構えた田村七宝工芸。常吉が没したのと同じ年に始まり、代々同じ地で技を磨き続けてきた。
七宝焼を作った人は誰かという問いの現在形の答えは、こうした各七宝焼の産地の窯元にある。実物に触れれば、200年近く受け継がれてきた技の厚みが手のひらで伝わってくるはずだ。
