
七宝焼の最古のものは何?牽牛子塚古墳の出土品と世界最古の作例を検証
七宝焼の最古のものは何か。作られた年代は7世紀後半。1300年以上前の日本に、すでに透明な釉薬を扱う技術があったことを示す貴重な遺例だ。
今回は、日本最古の七宝焼とされる出土品の詳細から、異説の存在、世界最古の作例、制作年が確認できる最古の作品までを整理する。
七宝焼の最古のものは奈良県の古墳から出土した金具
現在のところ、七宝焼の最古のものとして考古学的に確認されているのは、奈良県高市郡明日香村にある牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)から出土した「七宝亀甲形座金具(しっぽうきっこうがたざかなぐ)」だ。

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 七宝亀甲形座金具 |
| 出土地 | 奈良県高市郡明日香村・牽牛子塚古墳 |
| 発見年 | 1977年(昭和52年) |
| 点数 | 2点(1個と1組) |
| 材質・寸法 | 銅製、長径約4.6センチ |
| 古墳の造営 | 7世紀後葉(古墳時代末期)と推定 |
| 用途 | 棺の座金具 |
7世紀後半という年代は、飛鳥時代の後半にあたる。日本の七宝焼は少なくとも1300年以上の歴史を持つということになる。
この金具が重要なのは、単に古いからではない。透明な釉薬を用いた作例が太古の日本に存在したことを示す点で、技術史上きわめて大きな意味を持っている。
最古の七宝焼「七宝亀甲形座金具」が発見された経緯
この金具が見つかったのは、1977年(昭和52年)に行われた第2次発掘調査のとき。網干善教(あぼし よしのり)らによる調査で、被葬者の夾紵棺(きょうちょかん)の中から発見された。
夾紵棺とは何か
夾紵棺は乾漆棺とも呼ばれ、麻布を漆で幾重にも貼り重ねてつくる高級な棺。この棺の形式自体が、被葬者がきわめて高い身分の人物であったことを示している。
牽牛子塚古墳の被葬者については、定説では斉明天皇とされている。七宝焼の最古のものが、天皇の棺を飾る金具として使われていたということになる。
亀甲形という形状も見逃せない。六角形を組み合わせた亀甲文は長寿や吉祥を意味する文様で、最古の段階から七宝は「意味を持たせて飾る」技術として用いられていたことがうかがえる。
七宝焼の最古のものに異説がある理由
七宝焼の最古のものについては、別の候補を挙げる資料もある。
牽牛子塚古墳より1世紀ほど古い藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町、6世紀第4四半期の造営と推定)から出土した金銅製の鞍金具を最古とする見解だ。
見解が分かれる理由
この相違は、そもそも「七宝」という技法をどこから七宝と呼ぶかという定義の問題に起因する。
藤ノ木古墳の鞍金具は、表面的な観察のうえでは、熱を加えたガラス面に金物の小飾りを押し当てて固着させたものと見られる。釉薬を焼き付けたのか、それとも溶けたガラスに部品を貼り付けたのか。この違いが、七宝と呼べるかどうかの分かれ目になる。
さらに厄介なのは、当時「七宝」を意味する言葉が存在したかどうかも明らかでない点だ。後世の技法名を古代の遺物に当てはめる作業である以上、最古のものの認定に幅が出るのは避けられない。
最古のものに次いで古い七宝焼は正倉院にある
七宝焼の最古のものに次いで古い遺例として知られるのが、正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)」。
正倉院は奈良市の東大寺にある宝庫で、756年(天平勝宝8年)、崩御した聖武天皇の遺愛品を光明皇后が大仏に奉献した際、それらを納めたのが始まりとされる。現存する宝物は約9000点にのぼり、そのなかに奈良時代の七宝の作例が含まれている。
その後の主な遺例
- 平安時代/平等院鳳凰堂の扉に用いられた七宝の鐶(かん)
- 室町時代/七宝に関する記録が多く残るようになる
- 桃山時代ごろまで/国内で多数の七宝が製作されるようになったと推定される
古墳時代の金具、奈良時代の鏡、平安時代の建具金物。最古のものから連なるこれらの遺例は、七宝がつねに「高貴なものを飾る技術」として扱われてきたことを示している。
世界における七宝焼の最古の作例はどこにあるか
視野を世界に広げると、七宝焼の最古のものはさらに時代をさかのぼる。
技法の起源は紀元前の中近東、古代エジプトやメソポタミアの地域にあるとされている。金属の枠にガラス質を充填して焼き固めるという発想が、この時代にはすでに実用化されていた。
ツタンカーメンの黄金のマスク
世界における七宝の代表的な古例としてよく挙げられるのが、ツタンカーメンの黄金のマスクだ。青く輝く縞模様の装飾部分に、七宝と同じ原理の技術が使われていることが確認されている。
日本最古の七宝焼が7世紀後半であるのに対し、エジプトの作例は紀元前。その差は2000年以上あり、七宝という技術がいかに古い起源を持つかがわかる。
この技法は東西へ広がり、東へ向かった流れはシルクロードを通って中国、朝鮮半島を経て日本へ届いた。日本への伝来は古墳時代と推定されており、牽牛子塚古墳の年代とも整合する。
制作年がわかる七宝焼で最古のものは1634年の襖引手
出土品の年代はあくまで推定だ。制作年が文献で確認できる国内最古級の七宝は、寛永11年(1634年)の名古屋城本丸御殿・上洛殿の襖引手とされている。
この事実が示すのは、遅くとも江戸時代の初めには、日本国内で七宝が確実に製作されていたということ。伝来品ではなく国産である点に意味がある。
同時代の七宝師
桃山末期から江戸初期には、京都の金工師・平田彦四朗道仁(1591〜1646年)が「花雲文七宝鐔」などの作品を残した。平田一派は江戸幕府御抱えの七宝師となり、刀剣の装飾を手がけている。
また小堀遠州に登用された嘉長が、桂離宮・曼殊院・修学院離宮・大徳寺の襖引手や釘隠しを泥七宝で製作し、京七宝を発展させた。最古の出土品から1000年近くたっても、七宝は建具や武具を飾る「部品」として使われ続けていたことになる。
最古のものから現代へ──七宝焼が途切れなかった理由
7世紀後半の最古の金具から現代まで、七宝焼は完全には途切れなかった。ただし危機は何度もあった。
江戸時代後期、天保年間(1830〜1844年)に尾張の梶常吉(1803〜1883年)が製法を解明したことで「近代七宝」が始まる。古代からの技術が細り、改めて解明し直されたという事実自体が、七宝焼の伝承がいかに脆かったかを物語っている。
さらに1940年(昭和15年)には、贅沢品を禁じる「七・七禁令」(奢侈品等製造販売制限規則)によって製造が中止に追い込まれた。戦時中に愛知県が保護のしくみをつくって細々と製造を続けさせたことで、系譜がかろうじてつながった。
そして1995年(平成7年)4月5日、尾張七宝が経済産業省の伝統的工芸品に指定される(第29次指定)。
