
七宝焼はいつできた?飛鳥時代の出土品から近代七宝の誕生までを年表で解説
七宝焼はいつできたのか。この質問の答え方は一つではない。江戸時代と答える資料もあれば、飛鳥時代と答える資料もある。
ただ、これはどちらも正しく、見ている対象が違うというのが事実だ。技術として日本に存在した時期と、いま私たちが手にするいわゆる「七宝焼/近代七宝」が確立した時期は、1200年ほど離れている。
今回は、出土品の年代、記録の残る建築装飾、製法確立の年号といった確認できる事実をもとに、七宝焼の成立時期を段階ごとに整理していく。
七宝焼はいつできたのか?──三段階で考える
七宝焼がいつできたかを整理するには、「世界に七宝技術が誕生した時期」「日本に七宝技術自体が存在し始めた時期」「いまの七宝焼の製法が確立した時期」を分けるのが近道だ。
物証で確認できる世界最古の七宝は古代エジプト時代のもの。また、日本最古の七宝は7世紀後半のもの。飛鳥時代には、すでに日本国内に七宝の技術で作られた品があった。
一方、現在つくられている七宝焼の直接の起点は、江戸時代後期の天保年間(1830〜1844年)。この時期に尾張の梶常吉が製法を解明したことで「近代七宝」が始まった。
間の1200年間、技術は完全に途切れたわけではないものの、細く断続的にしか続かなかった。七宝焼の歴史は「長い前史」と「短く濃い近代史」の二層構造になっていると考えると理解しやすいだろう。
七宝焼はいつできた?─①七宝技術が世界で初めて生まれたのは紀元前

そもそも七宝の技術がいつできたのかといえば、紀元前の中近東にまでさかのぼる。古代エジプトやメソポタミアで、金属の枠の中にガラス質を充填して焼き固めるエナメル技法・七宝焼と同じ技術がすでに使われていた。
最もよく知られた実例がツタンカーメンの黄金のマスクだ。青く輝く縞模様の装飾部分に、七宝と同じ原理の技術が確認されている。
この技法は東西へ広がり、ヨーロッパではエナメル工芸として体系化された。シャンルヴェ、クロワゾネ、プリカジュールといった名称の分化は、それだけ長い時間をかけて技術が磨かれた証拠。
東へ向かった流れはシルクロードを通り、中国、朝鮮半島を経て日本へ届いた。日本への伝来時期は古墳時代と推定されており、仏教や金属工芸の技術とともに渡来したと考えられている。
七宝焼はいつできた?─②日本最古の七宝は飛鳥時代の7世紀後半

日本で七宝焼がいつできたかを示す最古の物証は、奈良県高市郡明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)から出土した「七宝亀甲形座金具」だ。
1977年(昭和52年)の第2次発掘調査の際、被葬者を納めた棺の内部から発見された。銅製で長径は約4.6センチ。古墳の造営は7世紀後半と推定されている。したがって日本の七宝焼の技術自体は、少なくとも1300年以上前には存在していたことになる。
この金具は透明な釉薬が使われている点でも重要だ。透明釉の作例が古代日本にあったことを示す、きわめて貴重な遺例とされている。
なお、6世紀後半の造営とされる藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町)の金銅製鞍金具を最古とする資料もある。見解が分かれるのは、加熱したガラス面に金具を固着させたものを「七宝」と呼べるかどうかの判断基準が定まっていないからだ。
奈良・平安・室町時代の七宝焼はどう使われたか
飛鳥時代のあと、七宝焼は途切れずに、しかし細く続いた。使われ方をたどると当時の位置づけが見えてくる。
- 奈良時代/正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)」。牽牛子塚古墳に次いで古い七宝の遺例
- 平安時代/平等院鳳凰堂の扉に用いられた七宝の鐶(かん)
- 室町時代/七宝に関する記録が多く残るようになる
- 桃山時代ごろまで/国内で多数の七宝が製作されるようになったと推定される
この時期の七宝焼は独立した美術品というより、鏡や扉、建具を飾る装飾金具として使われていた点が特徴。柱の釘隠しや襖の引手といった建築金物への応用も、近世以降に広く見られる。
つまり七宝焼は長らく「作品」ではなく「装飾部品」として日本の建築や調度に溶け込んでいた。単体の工芸品として意識されるのは、もっと後の時代になってからである。
制作年がはっきりわかる七宝焼で最も古いのは1634年
出土品は年代が推定にとどまるが、制作年が文献で確認できる七宝焼も存在する。
国内で制作年が確認できる最古級のものは、寛永11年(1634年)の名古屋城本丸御殿・上洛殿の襖引手。現在は復元された姿を見ることができる。

江戸初期に活躍した七宝師
桃山末期から江戸初期にかけては、京都の金工師・平田彦四朗道仁(ひらた ひこしろう どうにん/1591〜1646年)が「花雲文七宝鐔(つば)」などの作品を残した。平田一派は江戸幕府御抱えの七宝師となり、刀剣の装飾として七宝を用いている。
また、小堀遠州に登用された嘉長が、桂離宮・曼殊院・修学院離宮・大徳寺の襖の引手や釘隠しを泥七宝で製作し、京七宝を発展させた。
これらの記録から、遅くとも江戸時代の初めには日本国内で七宝が確実に製作されていたことがわかる。江戸中期には京都で高槻七宝が7代続き、加賀七宝や近江七宝など地方独自の系譜も生まれた。
七宝焼はいつできた?─③現在の七宝焼ができたのは天保年間(1830〜1844年)
現在のいわゆる「七宝焼/近代七宝」が「いつできたか」という問いへの答えは、「天保年間」が最もその答えに近い。
尾張藩士の次男・梶常吉(1803〜1883年)が、オランダ船で輸入された七宝の皿を手がかりに独学で製法を解明した。舶来の皿を割って土台が銅であることを突き止め、研究開始から14年目、31歳のときに製作方法の確立に成功したと伝えられている。
ここから七宝焼は尾張で急速に広がり、幕末には尾張の特産品となった。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会への出品で、その名は世界に知られることとなる。
明治期には、来日したドイツ人科学者ワグネル(1830〜1892年)が関わった透明釉薬の開発が決定打となった。この素材革新によって、並河靖之の有線七宝や濤川惣助の無線七宝といった高度な七宝表現が可能となったのだ。
七宝焼が美術工芸として国際的な評価を得たのは、飛鳥時代の伝来から数えて1200年以上たった明治期のことだった。
七宝焼の3000年以上の歴史を年表で振り返り、現在の産地へ
| 時期 | 七宝焼のできごと |
|---|---|
| 紀元前 | 古代エジプト・メソポタミアで技法が生まれる |
| 古墳時代 | シルクロード経由で日本へ伝来したと推定 |
| 7世紀後半 | 牽牛子塚古墳の「七宝亀甲形座金具」=日本最古の七宝 |
| 8世紀 | 正倉院宝物「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」 |
| 平安時代 | 平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶 |
| 1634年 | 名古屋城本丸御殿・上洛殿の襖引手(制作年がわかる最古級) |
| 1830〜1844年 | 梶常吉が製法を解明し、近代七宝が始まる |
| 1867年 | パリ万国博覧会に出品、世界に知られる |
| 1940年 | 七・七禁令により製造が止まる |
| 1995年 | 尾張七宝が経済産業省の伝統的工芸品に指定 |
古代エジプト時期から辿ると、七宝の技術は少なくとも3000年以上の歴史がある。日本においても、1300年以上にわたり、七宝焼の技法は完全に途絶えることはなかった。
いまも歴史が続いている場所
梶常吉の技術が根づいた愛知県あま市七宝町では、いまだに戦時中の七・七禁令による存続の危機を乗り越えたいくつかの七宝窯元が制作を続けている。常吉の技術を受け継いだ窯が、いまも同じ地で火を入れ続けているというのが、七宝焼の歴史の現在地だ。
年表の最後の行は、まだこれが終わりではない。七宝焼がいつできたのかを知ったあとに、いま焼かれている七宝焼を実際に触れてみることで初めて、今を生きるあなたの肌でこの長い技術の連なりを実感として感じ取れることだろう。
